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新城古城跡(しんしろこじょうあと)

新城古城跡(しんしろこじょうあと)

「新城市」の地名の由来に迫る!豊川のほとりに眠る戦国の要害「新城古城跡」

こんにちは!今回は、愛知県新城市にある歴史好き必見のスポット「新城古城跡(しんしろこじょうあと)」をご紹介します。

実は「新城(しんしろ)」という街の名前の由来にはいくつかの説がありますが、そのルーツの一つとして深く関わっているのが、この豊川のほとりに眠る小さなお城の存在です。戦国の動乱を生きた武将たちのドラマに思いを馳せながら、史跡を巡る旅へ出かけてみましょう!

🌊 豊川と幽玄川に守られた河岸段丘の城

新城古城跡は、新城橋の北東、豊川に面した比高差約20mの河岸段丘上(標高約39m)に位置しています。

  • 規模と構造: 約60m×60mの単郭方形(ひとつの曲輪からなる四角形のお城)というコンパクトなつくりをしています。
  • 面影をとどめる土塁: 城地の多くは現在畑や宅地になっていますが、東側を流れる幽玄川に面した場所には、かつての面影を伝える高さ30cmほど・長さ約30mの土塁状の高まりが今も残っています。大正2年頃までは3方に土塁が巡っていたとされ、当時は川の地形を巧みに活かした要害だったことがうかがえます。

🏰 「新城」の地名の由来と、菅沼氏の歴史

この城が築かれたのは天文元年(1532年)。歴史をたどると、興味深いストーリーが見えてきます。

  • 城主の移転: 当時、北方約2.5kmにある大谷城の城主だった菅沼定継(すがぬましげつぐ)が、この地へ居城を移しました。
  • 地名のルーツ: 大谷城に対して、新しく築いたこの城が『新城(しんじょう)』と呼ばれたことが、現在の「新城(しんしろ)」という地名の由来になったという説があります。
  • その後の歴史: 定継が数年後に田峯城へ移った後は、弟の定氏(さだうじ)が城主を引き継ぎました。なお、のちに奥平貞昌が移った「新城城(野田城の近くにあったとされる新城城など)」と区別するために、現在ではここを「新城古城」と呼んでいます。

⚔️ 激動の戦国期!「永禄5年の石田合戦」と廃城のドラマ

穏やかな川沿いの風景が広がるこの場所ですが、かつては激しい戦いの舞台となりました。

  • 石田合戦(永禄5年): 菅沼定盈(さだみつ)の反撃によって野田城から追い返された今川方の軍勢が、「このままでは帰れない」と矛先を変え、この新城古城を攻め立てました。
  • 城の最期: 定氏らはこの猛攻をしのぎきり勝利を収めたものの、城の損傷があまりにも激しかったためか、新たに杉山端城を築いて移住することに。これがきっかけとなり、新城古城はその歴史の幕を閉じ、廃城となりました。

⛏️ 発掘調査が語る、歴史のロマン

平成19・20年度に行われた発掘調査では、中心部分の遺構や遺物はすでに失われていることが分かりました(長年の耕作や工場建設などによるものと考えられています)。

しかし、土塁部分の調査では当時の盛土層が確認され、表土からは瀬戸美濃陶器の皿片がわずかに出土するなど、かつてここに確実に人が暮らし、戦国の息吹があった証が眠っています。

💡 訪れる際のおすすめポイント

  • 歴史の深掘り散策に: 現在は住宅や畑に囲まれた静かな場所ですが、案内板を読みながら歩くと、川の地形やかつての城の広がりがリアルに想像できます。
  • 周辺の史跡めぐりとあわせて: 新城市内のほかの戦国スポットや城跡とあわせて巡ることで、奥三河の歴史的背景がより深く楽しめます。

街の名前のルーツを感じ、戦国の武将たちが駆け抜けた歴史のロマンに浸りに、ぜひ「新城古城跡」を訪れてみてくださいね!

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