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道目記城跡(どうめきじょうあと)

道目記城跡(どうめきじょうあと)

道目記城跡(どうめきじょうあと)は、新城市杉山にある城跡で、日常の風景の中に“戦国の気配”がそっと残る歴史スポットです。**新城市指定史跡(1958年/昭和33年4月1日指定)**でもあり、派手さはなくても地域の歴史を感じながら歩ける場所としておすすめできます。

現在の城跡は、千郷中学校の用地横浜ゴム社員寮になっており、遺構は多く残っていません。それでも、中学校運動場の西側脇に土塁の一部がわずかに残っていて、「ここが城の輪郭の一端だったのかな」と想像が広がります。かつて学校用地の拡幅工事の際には、空堀が確認されたこともあったそうです。

城跡があるのは段丘の端部で、標高約50m・比高差約10m。地籍図からは、城郭の規模が約100m×100m、不整形な五角形の範囲に広がっていたと推定されています。築城は永禄3年(1560)、廃城は**天正18年(1590)**とされ、戦国期の動きの中で使われた城だったことが分かります(※築城年代は史料によって説があり、今後の調査研究の課題ともされています)。

城主として知られるのは、端城城(杉山)から移った菅沼定氏菅沼定利。周辺は、武田氏と徳川方の攻防が色濃く残る地域でもあり、元亀4年(1573)の野田城攻撃の際には、武田軍の動きとも関わったと伝わります。さらに天正3年(1575)の長篠の戦いでは徳川方として参戦したともされ、道目記城跡は“合戦の舞台そのもの”というより、勢力がせめぎ合う時代の拠点のひとつとして歴史をつないできた場所と言えそうです。

名前の由来も印象的で、城地の西側を流れる道目記川の、轟くような流れに由来するとも言われています。城跡めぐりのときは、地形と川の位置関係も意識してみると、当時この場所が選ばれた理由が少し見えてくるかもしれません。

※現在は学校・寮など生活の場が隣接するため、見学の際は周辺の迷惑にならないようマナーを守って、外から静かに散策するのがおすすめです。別名は道々目記城とも呼ばれます。

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