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新城古城跡(しんしろこじょうあと)

種別 新城市指定史跡
指定年月日 昭和43年2月12日
所在地 新城市石田字万福 地内

説明

新城古城は、新城橋北東、幽玄川との間に位置し、豊川に面した場所に所在している。

立地は比高差約20mで河岸段丘上の標高39m地点に所在している。規模は60m×60mの単郭方形を呈する。

城地の多くは、現況が畑や宅地となっている。大正2年までは豊川に面した場所以外に土塁が3方に巡っていたとされ、現在は東側の幽玄川に面した箇所に高さ30㎝程度で長さ30mほどの土塁状の高まりが認められる。

存続時期は天文元年(1532)~永禄5年(1562)で、城主は菅沼定継とその弟の定氏が知られている。

歴史

城主の菅沼定継は、ここから約2.5km北方の大谷城からこの地へ天文元年に居城を移した。千郷村史によると、この石田地内は永正3年(1506)~永禄5年(1562)まで領主は大谷城主定忠、定広、外1代とされていることから、領内での移転であったことが考えられる。

大谷城に対して、新たに築いたこの城は『新城(しんじょう)』と呼ばれ、新城(しんしろ)の地名もこれに由来するといった説もある。また、奥平貞昌の長篠城から新城城(しんしろじょう)へ移ったことと区別するために、この城を新城古城(しんしろこじょう)と呼称している。

定継は、数年後に田峯城に移り、弟の定氏が新城古城に入城した。

ここで行われた合戦は、永禄5年の石田合戦が知られている。その内容は、菅沼定盈の反撃によって野田城から退却を余儀なくされた今川方の軍勢は、「このままでは国に帰ることはできない」と代わりに新城古城を攻めたというものである。

定氏らはこの合戦に勝利することはできたが、損傷が著しかったためか新たに杉山端城に築城し、そこへ移住したためにこの城は廃城となった。

発掘調査の成果

平成19年度に中心部分に1m×2mの試掘坑を7箇所設定して調査したところ、遺構や遺物を確認するこはできなかった。その結果、以前に行われた工場建設又は耕作によって、遺構などの残存状況が低いものと思われた。また、平成20年度に土塁部分で行った調査では、土塁を構築したと考えられる盛土層を確認したが、遺物は表土から瀬戸美濃陶器の皿片がわずかに出土した程度であった。

これらのことから、東側の土塁状の高まり以外は遺構が滅失している可能性が高いことが分かった。