1. HOME
  2. ブログ
  3. 古宮城跡(ふるみやじょうあと)

古宮城跡(ふるみやじょうあと)

■ 所在地 新城市作手清岳字宮山 地内 
(丘陵内に白鳥神社が鎮座する)
■ 歴史
 古宮城は元亀2年(1571)に武田信玄が築城し、その縄張り設計は馬場信春が行ったという。

 天正元年(1573)の「古宮城の戦い」で、城に火が放たれたことで廃城となったとする説がある一方で、「御湯殿上日記」によると、天正3年(1575)に徳川家康の家臣であった大岡弥四郎、山田重英らは武田勝頼に内通して謀反を起こし、その際、勝頼は作手筋に出馬する予定を伝えている。

 この作手筋の詳細は不明であるが、恐らくこの頃も古宮城は存続していたものと推測され、同年に起こった「長篠・設楽原の戦い」で織田信長と徳川家康の連合軍に武田勝頼が敗北したことで徳川家康による当地域の支配が強められることとなり、古宮城は次第に武田氏の拠点城郭としての性格は失われていったものと考えられる。

古宮城の戦い

 元亀元年(1570)、武田信玄の侵攻によってこの地を治めていた国人領主の奥平氏は武田方に帰属を変更したが、元亀4年の武田信玄の死後、奥平定能・定昌親子は徳川家康に内通した。天正元年、奥平親子が居城の作手・亀山城を退去して滝山城に入ると、武田軍はそこに押し寄せた。奥平一族が起こした突然の裏切り行為による混乱に乗じて、手薄となった古宮城は定能・定昌親子の援軍として駆け付けた徳川家康軍の攻撃を受けて、城は焼き払われて武田勢は敗走したことで知られている。

■  立地場所

 古宮城は新城市北西部で標高約535m地点の作手地域の中心地に所在する。ここは周囲を低い山地で囲まれた高原的な地形で、そのほぼ中央部に形成された宮山と呼ばれる独立丘陵に城郭は立地している。

 周辺地には川尻城跡、亀山城跡、塞之神城跡、文殊山城跡といった武田氏とこの地域を治めた国人領主の奥平氏に関する城郭が立地している。